昨日、我が家の目の前にある小学校でなんかイベントが行われていた。
児童はみんな体操服に帽子姿で、グランドをぐるぐるまわっている。
それを父兄が寒そうに見ている、というイベント。
賑やかしの音楽も何もないイベントで、一瞬授業参観か?とも思ったが、どうやら持久走大会だったらしい。
しかし、その内容は自分が小学校から高校までその意味を疑問視してきたソレとは大きく異なっていた。自分にとって持久走大会は、1ヶ月前から体育の授業や朝っぱらから「練習」させられ、大会当日は学校近辺を走らされる、というものだった。
今回目撃した持久走大会は、学年毎に走行距離が決められて一斉にスタートし、ゴールすると順位カードが配られる、という方式ではなく、一斉にグランドを周回し始めて、規定時間の中で何周走れるか、自分自身との戦いを求められるルールだったらしい。また、他の学校では「他人との競争はさせない」という理由から持久走大会そのものが開催されなくなっているらしい。
そんなことでいいのですか!!!
持久走大会の醍醐味は、どうやって「練習」をさぼるかその口実をひねり出したり、どうして持久走の練習時に流れるBGMはこんなにセンスがないのかと感じたり、「そもそも持久走大会の練習って何だよ!」と世の中の不条理さに気づいたり、「一緒に走ろうね」と結成されるにわか同盟はすぐに崩壊し人間関係の厳しさを痛感したりするところにあるのではないのか!!
他人と競争させない、って、世の中常に他人と自分との比較で成り立ってるじゃないか、と思う。比較することで他人を傷つけたりもするけど、比較することで誰かを尊敬することだってできる。自分を成長させなくちゃ、という気持ちになることもある。
「ゆとり教育で個性を伸ばす」と言われているけれど、自分にしかない個性に自分自身気づくためには、他人と自分とを比較することがスタート地点になるんじゃなかろうか。
アイツは足が速い。自分は足が遅い。でも、カンナ削りは自分の方が上手い。とか。
自分の個性に気づきそれを伸ばしていくってことは、少なくとも1回はある部分で自分は誰かよりも劣っている、と自分自身で認識する必要があるのではないか。負ける痛みを知ることで、自分の強みをより強くしていけるんじゃないのかなあ。
最近の運動会は、手をつないでゴールする、とか聞いたことあったけど冗談だと思った。でも、この持久走大会の様変わりを見ると、今教育現場では本気でそういうことが行われているんだろうなあ。
一方で、学力の低下が目に見えるようになってゆとり教育に黄色信号が出始めているとかいうニュースも見た。平均学力のレベルを保ちつつ個性を育てるって相反している気もする。両方は無理なんじゃないか。
無理じゃないのかもしれないけど、とりあえず平均点が下がったからとか大人の都合で教育方針が変更されたら、子供はたまったもんじゃないだろう。なんかかわいそうだ。
コレを書きつつ宮部みゆきの「模倣犯」が頭の中に浮かんだ。
2006年9月14日追記
この時の光景、全く思い出せない。
自宅で仕事をしていて、毎日小学校から聞こえてくる声につっこみを入れていた時期なんだろうけど…。
あれからまだ2年経ってないけど「ゆとり教育」は失敗だった、ってことになってしまった。
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