気づけば2010年である。
ずっと放置しててもTypePadはちゃんとログインできた。
2009年は、厄年らしい一年であった。
今年こそは充実した一年にしたい。
毎年そう思っている気もするが、そう思うことすらなくなったら終わりな気もする。
だから今年も「今年こそは!」と思ってみる。
先日、リビングに座っていたらTVから有名なプロゴルファーのインタビューが聞こえてきた。
「2010年、皆さんを感動させられるゴルフをしたいと思います」
それを聞いて思い出した。
最近、感情を指示するフレーズって多くないか?と考えていたことを。
きっかけは…。
去年の7月末にやっていたフジテレビの27時間テレビ。
島田紳助氏がメイン司会で、なんかヘキサゴンの人々がわーわーやっていた。
一番最初のヘキサゴン(5角形のテーブルに回答者が座ってた奴)は面白がって見ていたが、
今の、特にCDばっか出し始めた最近のヘキサゴンには、あまり興味を持っていない。
ほとんどノーチェックだったけれど、三輪車を使っての耐久レースはチラチラと見ていた。
ちょうど同じ日に、鈴鹿では8耐決勝が行われており、twitterで鈴鹿8耐を追い、
テレビでは三輪車耐久を追っかけている、そんな状況。
その発言は、鈴鹿ではライトオンボードが提示されたであろうタイミング、
三輪車耐久チェッカーまで残り30分くらいに聞こえてきた。
「みなさん、あとちょっとです。あとちょっと頑張って、一緒に感動しましょう」
こんなニュアンスの言葉が、島田紳助氏の口から発せられた。
ものすごい違和感。
この時は、何に違和感を感じているのか、冷静には考えられなかった。
しかし、ずっと引っかかっていた。
感動って、「さぁ、感動しましょ♪」と誘われてするものだろうか?
Yahoo!の和英辞書で「感動する」と検索したら、be movedと返ってきた。
感動するってことは、心が動くってことだろう。
受動的な「感動させる」とか、客観的な「感動させる」はわかるけど、「Let's 感動」ってナニ?
心を動かすかどうかは、とても主体的なことであり、他人から誘われたりましてや強要されるものじゃないのでは?
そう考えると、近頃感情を指示する宣伝とかフレーズが多いような気がする。
映画のCMで「泣ける!」や「衝撃の感動作」とか。
泣くかどうかは自分で観てみなきゃわかんないし、
衝撃を受けた上に感動するかも、自分で決めさせてよ、と思う。
近頃減ったけど、観客のコメントを並べ続ける映画のCMも、
客観的な感想を並べてはいるものの「この映画を観てこういう感想を持ちなさい」という作為が感じられる。
小島慶子女史が、ラジオ・キラキラの中で
「ニュースを読むとき、女子アナが顔をしかめて『政府がまた方向転換です』みたいなこと言うでしょ?
アナウンサーはそんな風にニュースを読む時に感情を表すべきではない。
それを許せないと思ったり、頑張れと思ったり、どう思うかは視聴者に任せるべき。」
みたいなことを言っていた。
メディアの人でも、そんな風に考えている人、いるんだなぁ。
みんな「正解」を求めているのだろうか。
「こういう時には、こう感じるものなんですよー」
と教えられた方が、楽?
確かにコミュニケーションは取りやすいのかもしれない。
でも、ツマラナイよね、きっと。
みんなそれぞれ違うから面白いし、違うはずなのに意見が一致するとその時は嬉しかったりするんだし。
冒頭のプロゴルファーも、人を感動させるためにゴルフするんじゃなくって、
自分のためにゴルフしたらいいのに。
スポーツや、音楽とか芝居とかのクリエイティブなものって、人を感動させやすい。
でも、感動させるためにやってるから感動するんじゃなくって、
その人が、それに打ち込んでいる姿とか、その人の中からあふれ出てくるクリエイティビティに共感するから心動かされるんじゃなかろうか。
昔あるボクサーが、1ラウンドKO取っちゃうと、観ている人がすぐに試合が終わってつまんないだろ、
みたいなこと言ってた。
でも、そういう風潮が出始めてすぐに、無駄にダラダラやる試合につまらなさを感じたのか、
ボクシング人気ってちょっと低迷したように。
目的や目標と、それによる副産物をごちゃ混ぜにしちゃうとおかしなことになる。
文章を書くことでお金をもらっている今。
読み手に「こう感じろ」と指示するような言葉は使わないように、気をつけていきたいと思う。
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